健康寿命を延ばしたい。そう考える人は、今ではもう珍しくありません。そんななか、「老化は治療できる病気だ」と本気で信じ、最前線で研究に取り組む一人の科学者がいます。しかも彼は、クラフトビールと揚げ物をこよなく愛するという、ちょっと変わり者。その名は──オーブリー・デ・グレイ博士。長く伸びた髭に包まれたその姿は、まるでファンタジー小説の賢者のよう。けれど彼が語るのは、夢物語ではありません。「人類は、20年以内に老化の束縛から解き放たれ、平均寿命は1000歳に届くかもしれない」この大胆な予測に、Googleやシンガポール政府、BBCといった名だたる機関も注目しています。老化研究の未来を語るとき、デ・グレイ博士の存在を無視することはできません。多くの研究者が、老化は“仕方のないもの”と受け入れるなか、博士はあくまで逆を突き進みます。「老いは克服できる」──そう強く信じて、黙々と研究を重ねてきました。誰かに媚びるわけでも、華やかな演出をするわけでもない。ただ、科学が示す道を信じて進むその姿には、どこか“澄んだ強さ”が感じられます。彼の言葉に熱狂する人もいれば、「異端」として距離を置く研究者もいます。それでも揺るがない彼の自信は、いったいどこから来るのか?その答えは──彼のユニークな経歴と、「老化とは工学的に解決できる問題だ」とする、革新的な理論にありました。コンピューター科学から老化研究へ──異色の経歴が生んだ視点実は、デ・グレイ博士は正統的な生物学の教育を受けていません。英名門ハロウ校からケンブリッジ大学へ進学し、専攻したのはコンピューターサイエンス。卒業後は、人工知能の専門家としてキャリアをスタートさせました。そんな彼の人生を大きく変えたのが、19歳年上の遺伝学者、アデレード・カーペンター博士との出会いでした。結婚後、日常の会話の中で語られる彼女の研究内容に強く惹かれたデ・グレイは、1995年から生物科学をゼロから独学で学び始めます。論理的思考を得意とするコンピューター科学者としての背景、そして生物学の“門外漢”だからこそのしがらみにとらわれない視点。この2つが融合したことで、後に学界を揺るがすことになる──まったく新しい老化理論の土壌が生まれたのです。老化は“病気”ではない。“修復可能な損傷”という新常識2005年、デ・グレイ博士は「SENS理論(Strategies for Engineered Negligible Senescence:工学的に無視できる老化を達成するための戦略)」を提唱し、学界に大きな衝撃を与えました。その核心は、実にシンプルです。「老化とは、代謝の過程で生じる“さまざまな損傷”が蓄積した結果にすぎない」SENS理論によれば、従来のアンチエイジング(老年学)や医療(老年医学)が取ってきたアプローチは、いずれも的を外していたと言います。従来のアプローチ老年学(抗老化薬など): 代謝が損傷を生むプロセスに介入しようとするが、代謝そのものは生命活動に不可欠なため、抑えるわけにはいかない。老年医学: 損傷が蓄積し、病気として顕在化してから介入するが、その時点ではすでに“手遅れ”である。では、どうすればよいのか。SENS理論が提示するのは、そのどちらとも違う“第三の道”です。つまり──「代謝によって生じた“損傷”そのものを、病気になる前に定期的に“修復”する」というアプローチ。デ・グレイ博士は言います。「人間の体も、クルマのように定期メンテナンスをすればいい。そうすれば、老化による機能低下は“ほぼ無視できるレベル”に抑えられる」と。老化の7つの原因と、それぞれの修復法デ・グレイ博士は、私たちの体に蓄積する“老化の原因”を、7つの損傷タイプに分類しています。さらに、それぞれに対して具体的な「修復戦略」を提案しました。この理論によれば、老化とは不可避な衰えではなく、科学的に対処できる“修復可能なトラブル”にすぎないのです。7つの損傷とその対応方法損傷の種類修復方法1細胞外老廃物蓄積免疫療法による除去2老化細胞の蓄積免疫療法による標的除去3細胞外マトリックスの硬化AGE分解分子と組織工学4細胞内老廃物蓄積新規リソソーム加水分解酵素5ミトコンドリアDNAの損傷13種のミトコンドリアDNAの同素体発現6がん細胞テロメア伸長機構の除去7細胞喪失、組織萎縮幹細胞と組織工学この7つの損傷に対し、それぞれに対応した修復方法を技術的に確立できれば、老化による体の機能低下は“コントロール可能な現象”になるとデ・グレイ博士は主張しています。反発されても譲らない──「SENS理論」が認められた瞬間「老化は除去できる」──当時、そう公言したデ・グレイ博士の主張は、あまりにも過激に映りました。2005年、彼のSENS理論に対して、世界の著名な研究者28名が共同で批判声明を発表する事態に発展します。その中には、国立老化研究所の部門長や、「抗老化のゴッドファーザー」の師として知られるレオナルド・グアレンテ博士など、錚々たる顔ぶれが名を連ねていました。さらには、MITテクノロジーレビュー誌の編集長ジェイソン・ポンティンまでもが参戦。科学的議論を離れ、「まるで大学院生のような格好だ」などと、デ・グレイ博士本人への個人攻撃を展開します。ところがこの行為が、かえって世論の反感を招きました。追い詰められたポンティンは、「SENS理論が間違いであることを証明した者に賞金を出す」という公開チャレンジ企画を打ち出します。デ・グレイ博士はこの挑戦を歓迎し、自ら私財を投じて賞金額を増額。そして、世界中から集まった5つの科学者チームを相手に、たった一人で討論に立ち向かったのです。その結果──陪審団は「SENS理論はまだ証明されたとはいえないが、誤りであるという決定的な証拠も存在しない」という結論を下しました。この討論会をきっかけに、デ・グレイ博士は一躍世界から注目を浴びます。PayPal創業者のピーター・ティールなど、シリコンバレーの著名な実業家たちが彼の理念に共鳴し、資金援助を表明。2009年には、博士自身の手で「SENS研究財団」が設立され、老化の“根本修復”を目指す研究が本格的にスタートしました。節制しない理由。それもまた、彼の信念の証デ・グレイ博士のライフスタイルは、まさに彼の信念を体現しています。厳しい食事制限もせず、日々の運動にもこだわらない。むしろ、クラフトビールと揚げ物を楽しむ日常を、堂々と公言しているのです。一見、老化研究の第一人者としては矛盾しているように見えるこの姿勢。しかし、それこそがSENS理論の本質を象徴しているといえるかもしれません。もし、老化が“避けられない衰え”ではなく、“修復可能な損傷”であるならば──その損傷をほんの少し遅らせるためだけに、ストイックな生活を続けることに、どれほどの意味があるのでしょうか?テクノロジーが損傷を根本からリセットしてくれる未来が、本当に20年以内に訪れると信じているのなら──今という瞬間を心から楽しむことこそ、もっとも合理的な選択なのかもしれません。異端の天才が描いたその未来が、果たして現実になるのか──その答えは、まだ誰にもわかりません。けれどひとつ確かなのは、彼が老化研究の世界に投じたその一石が、いまも確実に、大きな波紋を広げ続けているということです。